鍋に頭をぶちまける

結構変でかなりひねくれた性格の私(宇宙人)が、生きてて腹が立ったこと、それについて考えたこと、頭の中に浮かんできたこと、洗いざらいぶちまけます。

認知の歪み

 今Twitterでバズっているつぶやきの一つに、ADHDの方のもので、大量の郵便物を持ち込み注意された、というものがあった。その方が言っておられるのは(認知の歪みにより怒られた、と過剰に反省してしまうが、ポジティブに捉えることもできる)ということであり、これはもっともだと思う。しかし、そのつぶやきそのものに、私の認知の歪みにより怒られたときのような印象を受けた。
 今まで認知の歪みについてのつぶやきをみても、このようにうがった見方をしてしまった記憶はない。あー、わかるかも、これも歪みだったんだ! とむしろすっきりするような思いすらある。
 まずどうしてこのつぶやきにだけ認知の歪みが強くかかってしまったのか。ひとつには、私の認知の歪みは外に発散される型であり、つぶやきの主の方のように自己否定につながりにくい、ということがあるだろう。さすがに周りに当たり散らすようなことはしないが、相手側にも非があるのでは?と考えて内心もやもやする、ということになる。やはり正直に言って他人より自分のほうがかわいい。ましてや私はあまり相手に攻撃的なことを返しているといった思いがないため、認知の歪みを治さなければ、という思いの形や強さにつぶやきの主の方と相違がある。
 ふたつめは、あまりその方のつぶやき方が私の好みでなかった、ということ。もうこれを言ってしまうとどうしようもないのだが、その方は自分の状況を客観的に淡々と述べるようにつぶやいており、おそらくそれは本人にとって1番問題改善に役立つ対峙のあり方なのだろうが、私のフィルターを通すと、注意として響いてしまった。あくまでも本人の感想であれば、私も「人の振り見て我がふり直せ」ではないが謙虚に聞くことができる。あえて自分より遠い話のほうが印象に残るし、自分の事自体も素直に見直せるのだ。
 これは完全に蛇足であるが、つぶやきで挙げられていた事例は「怒られた」意味合いも含んでいると思う。これは「叱られた」という意味での怒られた、ということた。おそらくつぶやきの主の方にとっての「怒られた」は相手の感情の昂ぶりとしての怒られたなのであろうし、それであればそのような考え方が自己否定につながる、というのも分かる。しかし、郵便物を大量に出す、ということは普通あまりないことで、実際に持ってきてから「大量に出すときは事前に連絡してください」といわれてもどうしようもないし、そのような必要な情報でもサイトなどで示していなければ持ち込んだ側にはなんの非もない。事前に分かったほうが楽だ、というのは想像できても、だからといって事前に連絡したら増員が可能、ということは今日の社会を見てもあまり想像できないのではないだろうか。事前に連絡したとて、郵便局側が職員に臨時出勤を依頼しなければならず、また依頼された職員も臨時出勤が必要になったといえば結局は迷惑がかかることそのものは変わらず、どちらかといえば増員のほうがいい、というのは完全に郵便局側のエゴでしかない。持ち込む側も、それを考慮して事前リサーチをかけ、またおそらくゆとりをもったタイミングで郵便局に持ち込んでいるのだろうと思われる。十分に手間をかけているのだ。となるとやはり職員の発言を不快に感じることがあっても不思議ではない。
 認知の歪みはいい気がするものではない。自分も辛いし、相手に迷惑をかけることがあるかもしれない。しかし、本当におかしいと思ったことは素直におかしいと言ってもいいのではないだろうか。