鍋に頭をぶちまける

結構変でかなりひねくれた性格の私(宇宙人)が、生きてて腹が立ったこと、それについて考えたこと、頭の中に浮かんできたこと、洗いざらいぶちまけます。

才能

 私の母はいわゆる毒親なので、私には大人になった今いろいろと気になるような言葉が記憶に残っている。
 体育大会のマスゲームでダンスが下手なのを指して(ときにはわざわざ写真を持ち出して)下手くそなのを笑うタネにしたし、
 図工や美術の展示を見て回るときには「何の作品なのか全然分からなかったんだけどwwww」と言い、
 国語で出した俳句コンクールで入賞すると、「なんでこんなのが入賞できたの?どこがいいの?」と聞かれた。
 どれも学校の強制力のもとにいやいややったものである。良くない作品なのは当の本人が1番分かっているし、母に伝わって欲しいとか、みんなに褒められたいと言った感情も無かった。自分なりになんとか取り組んで仕上げたものだった。
 こういう、学校や幼稚園でやらされる「芸術作品」の目的というのは、クラスや学年において他人と協力することであったり、同じテーマの元個性を出すような作品をつくり普段学校生活を見ることがない保護者に披露することであったり、自分の作品を他人に見せることで「表現する」ことに耐えるメンタリティを育てることではないかと思っている。そして、そうした作品を評価するに当たっては、「社会で生きていく上で必要なスキルを、他人に定められた環境のもとでも示すことが出来るか、困難であってもそうするよう努力したか」と、「芸術作品として客観的に優れているかどうか」の二つに分かれるだろう。
 目的を考えれば、後者の基準を当てはめるのは本来不適切であることが分かるはずだ。もし絵が描けるようになりたい、ダンスが出来るようになりたい、上手な句を詠めるようになりたい、と考えている子供に対して言うのであれば前者の基準にたったアドバイスも有用であろうが、そうでない子供に対して言っても、やらなければならないことが嫌に感じられるだけで、何も生み出さない。気分が悪いなかでやっても、上手くならないのが大抵である。それどころか、それ以後なにかセンスを要求させるような似た状況、作品作りにおいて、その言葉は何度でも蘇る。私などは、手帳に落書きすることですら、家の中で出来ない。母に見られたくないと思い、リラックスできない。
 今の世の親は褒めてくれる人も多いようで、うれしいと思う。

コスメ談議

@karinnn1240さんのツイート: https://twitter.com/karinnn1240/status/1015955573592866817?s=09

ちょっといろいろと思うところがあったので、思い切って書いてみようと思う。本人さんがどのように考えているのか、細かいところは分からないので、私がツイートに関して感じたように、彼女もこの記事を読んだとすればいろいろと思うところがあろうが、もしひとつでも悪くないと思えるものがあればぜひ使ってほしい。

まずツイートについて。ひとつ疑問がある。

①「全てのコスメ」とは?
 二通りの解釈ができる。
 1つ目は、「化粧用具一通り」
 これならドラストに行けばキャンメイクセザンヌ、メディア、ちふれ、キスミーフェルムといったいくつかのブランドがある。新しいブランドを創始しても、定番ものなら他所にあるし、流行ものは既にキャンメイクが大健闘している。おそらく日本のコスメでは最先端を行く総合的メーカー、資生堂というのもある。アイスクリームをデザインした色物のみのコスメラインや、POSME、マジョリカマジョルカを見ればなんとなく安く少量の商品を意識しているな、と思うところがある。(このあたりについては後述したい)女子高生がいきなり作ったブランドで、これらに勝てるか?というと…
 2つ目は、「既にある各社製品」
これはちょっと面白いな、と思う。高いにものには高いだけの理由がある。ある程度値段がある方が、高級感、信頼感を演出し売れるということ。またデパコスが高いのは、新しいもの、そのブランドにしかないものを作るために、デザインや宣伝、パッケージ、また店舗の雰囲気などと、化粧品を作るだけにとどまらないお金が使われているからだということ。そしてある程度まとめて売ったほうが安い、というのはものを売買する上での常識である。それらを上手に乗り越えて新たなマーケティングを提案します、といえればかなりかっこいい。
 ただし、コスメやコテ、ドレッサーを使い放題のサロンが既に都市圏に存在している。また、とりあえず買ってみて試したあと、気に入らなければメルカリに売ってしまう。であるとか、YouTubeや美容垢、クチコミ・レビューで綿密な情報収集を行い吟味してから買う。であるとか、月一回のボックス購入により新製品のサンプルを手に入れる。デパコスといっても、カウンターに行きさえすればBAさんにメイクをしてもらい(スキンケアであればサンプルをもらい)それで1日過ごしてみる、ということができる。またデパートやサロンでパーソナルカラー診断をしたあとアドバイスシートに載っているコスメを買うとなれば、よっぽどのことがない限り使い切れる商品を買うことができる。コスメではどうなっているのか無知で申し訳ないが、ファッションにおいては安価でレンタルし、気に入れば購入、気に入らなければそのまま返却するといったスタイルの通販が存在する。これらの購入スタイルが既にある中、どれだけ新鮮味をもってして乗り込んでいくことができるだろうか。
 口うるさいことを言うが、そもそも女子高生というのは、少ないお小遣い&収入のなかでやりくりしなければならないものである。ある程度の額と、必要最低限の生活必需品が揃っていれば、わがままは言わずにプチプラを使い、デパコスに挑戦するなら貯金やお年玉、プレゼントの利用を検討すべきだ。服やかばん、靴に関してはあまりに安く切り詰めすぎると縫製が悪かったり化繊・合皮に甘んじることになるためなんとも言えないが、コスメに関しては完全に個人の趣味の範疇ではないだろうか。するなとは言わないが。

 次に、これらの文句を書き連ねた結果として、私からも提案してみたいと思う。
②JKのためのコスメブース
 先述のとおり、都市圏にはコテ、コスメ等使い放題のサロンというのがある。これをJKに使いやすい形で展開していってはどうだろうか。
 JKは日本全国に存在しており、また各個人の行動範囲が狭い。そのため、イオンなどの全国展開の大型スーパーマーケットのドラストコーナーと提携してはどうだろうか。田舎あるあるによく登場する、「イオンしか行くところがない」という台詞。身近なところに、キラキラかわいい女子のための空間ができたら…? ちょっとわくわくしてこないだろうか。イオンやダイエーはドラストコーナーのブランド数が多め、またカラコンの取り扱いもあるので、一度お膳立てできればブース設立自体はそんなに難しくない。プリクラコーナーやファッションのコーナー、フードコートも近くに配置したい。学生料金を設定することで入りやすい雰囲気を作ったり、WAON POINTの限定デザインカードを発行して会員登録を促すとか、またモール内店舗のクーポンを配布するなどしてJKを優遇することもできる。イオンは各メーカーと連携して限定アイテムを売り出したり、独自ブランドも多く持っているので、これをきっかけに一大JKマーケティングを企画することもできるかもしれない。
 友達と一緒に入って、自室のような雰囲気でワイワイとコスメを試すというのはきっと楽しい。近いので、月1で通ってしまうなんてことにもできるかもしれない。ブースを出て買い物に回れば、いろいろな状況下での使用感を試すこともでき、またイオンとしては「あの子かわいい!」なんて新たにブースにやってくるご新規さんも期待できる。


長々と書きましたが、何かひとつでも面白いものがあれば幸いです。

コンビニのエロ本

 どこかの団体が、この反対キャンペーンに乗り出したようだ。ただ単純に反対賛成を言える問題ではないかな、と思う。
 確かに、表紙からして結構な写真、イラスト、扇情的ワードを示しているあれら薄い本が、特にレジでの年齢確認もなく簡単に売られてしまっている状況が良いのかというとそうではない。嫌でも目に入る事実があり、それで嫌な思いをしている人がいるとか、子供に悪影響を与えているという意見ももっともだと思う。
 しかし、じゃあ売るのをやめればいいのかというとそうではないとも思う。
 最近よく言われていることに、アニメ好きなどの従来オタクとして蔑まれがちだった層に属すといえる人が何か問題を起こした場合に、いかにもそのような嗜好が犯行の動機であったかのように、犯罪者であることとの関連があるかのように報道することに対する反発というのがあるだろう。もちろんそのような嗜好が影響を与えた可能性がゼロであると言えるわけではないが、同時に、確実であるともいえない。またこれまでの犯罪者の脳には骨格にはなんらかの特徴が見いだせて…といった主張も今日では否定される傾向にあり、それと同様に、相関関係があるといった言動はあまりするべきでない状況と言えるだろう。
 この問題と同じような目線に立つと、必ずしもエロ本を買う人、そしてそのような購入を手助けする商業が悪とは言い切れないのだ。性に興味があるのは当たり前で、それをある程度発散させたほうが人間生活は楽になり、そしてあのようなどぎついものが性癖であるのも自然であり、需要があれば商品化されるのも当然かもしれない。つまり、エロ本そのものは悪ではないし、それを買う人も悪ではないし、買う人がいれば売る人もいる。
 コンビニは商業から生まれたものだ。需要があるものを売って何が悪い。一般的な日常品が(値段やこだわりは別としても)一通り買える場所だ。エロ本がある程度の客にとって日常品なら、売っていいのだ。
 そういったものが世に存在することを子供が知っていてもいいと思う。いつしかは知ることで、むしろ知らなければならない側面もあることなのだから。言うべきは、肉体的に成熟していない子供が容易に行動に移すべきではないこと。あくまでも2次元中のこと、演技にとどめ、現実の相手に行ってはいけないものが含まれていること。むしろ存在を知っていることで、性犯罪から自分の身を守ることにも繋げられるかもしれない。まったくもって存在を認知していない敵からの攻撃を避けることはできないのだ。
 具体的に言えば、コンビニでない、例えばビデオ店のようなほかの業種が行ってきたように、見たくない人、見せたくない人は見ないで済む環境の整備だろう。気軽に買えるメリットと、あまりにすぐ目に入ってしまう公共性のデメリットとをうまく解決できるように、スペース分けにアイデア性が求められる。店側のコストは高すぎず、またいかにもな雰囲気を醸すことなく、極めてカジュアルに感じよく、「ここはエッチなものがあるところだからね」とお互いが納得できる仕切り。コンドームやテンガのパッケージデザインのように、明るい口調で世に提案できる環境と、鋭意あふれるデザイナーが出て来ると面白いかもしれない。
 
 

認知の歪み

 今Twitterでバズっているつぶやきの一つに、ADHDの方のもので、大量の郵便物を持ち込み注意された、というものがあった。その方が言っておられるのは(認知の歪みにより怒られた、と過剰に反省してしまうが、ポジティブに捉えることもできる)ということであり、これはもっともだと思う。しかし、そのつぶやきそのものに、私の認知の歪みにより怒られたときのような印象を受けた。
 今まで認知の歪みについてのつぶやきをみても、このようにうがった見方をしてしまった記憶はない。あー、わかるかも、これも歪みだったんだ! とむしろすっきりするような思いすらある。
 まずどうしてこのつぶやきにだけ認知の歪みが強くかかってしまったのか。ひとつには、私の認知の歪みは外に発散される型であり、つぶやきの主の方のように自己否定につながりにくい、ということがあるだろう。さすがに周りに当たり散らすようなことはしないが、相手側にも非があるのでは?と考えて内心もやもやする、ということになる。やはり正直に言って他人より自分のほうがかわいい。ましてや私はあまり相手に攻撃的なことを返しているといった思いがないため、認知の歪みを治さなければ、という思いの形や強さにつぶやきの主の方と相違がある。
 ふたつめは、あまりその方のつぶやき方が私の好みでなかった、ということ。もうこれを言ってしまうとどうしようもないのだが、その方は自分の状況を客観的に淡々と述べるようにつぶやいており、おそらくそれは本人にとって1番問題改善に役立つ対峙のあり方なのだろうが、私のフィルターを通すと、注意として響いてしまった。あくまでも本人の感想であれば、私も「人の振り見て我がふり直せ」ではないが謙虚に聞くことができる。あえて自分より遠い話のほうが印象に残るし、自分の事自体も素直に見直せるのだ。
 これは完全に蛇足であるが、つぶやきで挙げられていた事例は「怒られた」意味合いも含んでいると思う。これは「叱られた」という意味での怒られた、ということた。おそらくつぶやきの主の方にとっての「怒られた」は相手の感情の昂ぶりとしての怒られたなのであろうし、それであればそのような考え方が自己否定につながる、というのも分かる。しかし、郵便物を大量に出す、ということは普通あまりないことで、実際に持ってきてから「大量に出すときは事前に連絡してください」といわれてもどうしようもないし、そのような必要な情報でもサイトなどで示していなければ持ち込んだ側にはなんの非もない。事前に分かったほうが楽だ、というのは想像できても、だからといって事前に連絡したら増員が可能、ということは今日の社会を見てもあまり想像できないのではないだろうか。事前に連絡したとて、郵便局側が職員に臨時出勤を依頼しなければならず、また依頼された職員も臨時出勤が必要になったといえば結局は迷惑がかかることそのものは変わらず、どちらかといえば増員のほうがいい、というのは完全に郵便局側のエゴでしかない。持ち込む側も、それを考慮して事前リサーチをかけ、またおそらくゆとりをもったタイミングで郵便局に持ち込んでいるのだろうと思われる。十分に手間をかけているのだ。となるとやはり職員の発言を不快に感じることがあっても不思議ではない。
 認知の歪みはいい気がするものではない。自分も辛いし、相手に迷惑をかけることがあるかもしれない。しかし、本当におかしいと思ったことは素直におかしいと言ってもいいのではないだろうか。
 

視点

 話者の視点というものを伝えるのは難しいと思っている。もしかしたら私が他の人よりも下手なだけかもしれないが。
 主にコンビニで一緒に働いている人に多いのだが、なぜか「私」が主語だったり話題の中心だったりというふうに偏って認識されてしまう。例えば困ったお客さんの話題のとき、まあ特に対処している店員というのが定まってくるのだが、「今日は何もありませんでしたよ」というと、「お前は何も困らないだろ笑」と返ってくる。え?
 なぜここで私が個人的な話をしなければならないのか。話題が話題なのだから、「(某迷惑客に関するトラブルは)今日は何もありませんでしたよ」という発言だ。「(私に対しては)今日は何もありませんでしたよ」というのはそもそも文法的に不自然だ。私がなにかされたのなら「今日は何もされませんでしたよ」になるはずだし、そもそも普段私が某迷惑客に対してなんらかの対処をするポジションにないことはすでにわかっている事実である。となると、「今日は」というのも不自然で、「今日も」となるはずである。
 何が腹立たしいかといえば、私は自分が何もされない安心安全な立場にいて、特定の店員が迷惑を被っている店全体の問題について目撃者として証言している、というスタンスの発言に対して、何もされてないのに被害者側に立つカワイソウな奴、というレッテルを貼られることだ。完全に会話が成り立たなくて居心地が悪くなる。いやカワイソウなのは人の話聞いてないあなた達でしょう。
 おそらくコンビニの人とは圧倒的に会話をする機会が少ないために、私の言葉遣いというものがあまりあちらにもわかっていないためであろうと思われる。たとえ私の話し方に問題があるにしても、ある程度会話をした経験がある人は、おそらくこの意で言っているのだろう、というところまでは理解した上で確認してくれる。私の主語を明言しない話し方に対して、その主語がなんであるのかを確認しなければならない、という認識があるのだ。それをコンビニの人たちはとりあえず「私は」を当てはめてなんとかしよう、となるからここでズレが生じる。
 にしても、相手の発言の主語が読み取れないときにはとりあえず「私は」を補うという反応、これはどこまで共通なのだろう?
 

遅刻魔

 私は遅刻魔だ。それもかなりやばい。
 まず朝起きるのが嫌い。もっと寝ていたい。お布団が離してくれない。
 次に化粧が面倒。化粧そのものはわりと好きだが、しかしすごく時間を取るし、失敗したときのテンションの下がり具合とリカバリーに取る時間を考えるといつも地味なところで止める。毎日カラフルなアイシャドウを作り込んでインスタに上げていらっしゃる方々、本当に尊敬します。リップとチークの色を考えるだけでしんどいし、マスカラも下手くそ… 化粧が終わった頃にはベースがうっすら崩れている。
 服を選ぶのも面倒だ。前日用意しても、寒かったとか暑かったとか雨が降ったとか予定が変わったとか予想以上に肌が荒れてたとか合わせられる下着がないとかで結局は変える羽目になる。自転車に乗れる服は限られているし、雨の日に履ける靴も限られているし、それにだ、妹よ、勝手に私の下着を着ないでくれ。
 支度ができたらできたで、家族が出かけるからあれをしろだの、充電していたはずのけーたいからはなぜかケーブルが抜き取られ、服が変わったからかばんも変わる、鍵がいるハンカチがいるペットボトルがいる…あ、ティッシュ使い切ってる! 永遠にジッパーが引けない。
 やっと家を出ても、いつもより余分にかかる駅までの道のり。何があって遅れたのか、自分でもわからない。駅についてやっと気付いてももう遅い。そして目の前で動き出す電車。十分の待ち時間、そして歪んでいく乗り換え案内。
 駅についても、相手がどこにいるかわからない。必死に連絡をしても、違う改札口にいる。向かっても入れ替わりになり、最終的に迎えに来てもらうはめになる。
 やはり遅れるのは心苦しいのだ。化粧には何分、着替えに何分、食事に何分、何時に家を出たらいいだろうか、かばんは夜のうちに作っておこうか、いろいろと策を錬るがいまだ完成していない。学校やバイトといったルーティンの場合はまだなんとかなるが、人と出かけるなんていうと目も当てられない。その前にバイトに行っているとどうしても着替えや食事に手間がかかるし、どこにもミスはなかったはずなのに必要以上に時間が経過していた、なんてことになると相手への連絡も遅れるし、間に合っても早すぎて困ったりする。やらかした日の夜なんかはもうどこにも行きたくない、と内心真っ暗だ。
 遅れたら遅れたでその時の態度もいろいろと反感を買う。凹んで謝っていても鬱陶しがられるし、だからといって切り替えて開き直れば困られる。言い訳すれば怒られ、しかし謝るだけでは言い訳を求められる。どんな態度でも、最後には人間性が…と説教を食らう。それならまだいいが、ああしてみたか、こうしてみたかと尋ねられ、やってみました、もうやりましたと応えればそんな訳はないだろうと叩かれる。正直に言ったことすら信じてもらえない。
 …やはり待ち合わせはしないに越したことはない。
 

民主主義、とは

 別に特段気を使って政治に関するニュースをチェックしている、といったことはないのだが、政治家というのは、本当に「国民の意見を代弁するため」に働いているのか、というのを思う。あれは本当に皆の意見を提出するための役割であるだろうか。
 
 代議士たちがひとりひとり私達にインタビューしてくれたことがあるだろうか。一人ひとりの、根拠とか感情とか信念とかのバックグラウンドを含めた上の「意見」を練り合わせた上の主張を国会で発表しているだろうか。もちろん国民というのはとても多くて、それぞれ忙しくて、実際にそうすることは無理である。選ばれたメンツでさえ、全員が心置きなく意見を語る時間を取れていないのだから、できるわけがない。ある時間やお金を有効に使ってできる限りの結果を出すのも、人間のあり方であろう。しかし、本来、というか理想はそうでなければならない、ということを本当にわかっている人がどれだけいるのか。根っこにはルソーその他の契約論があるのだということを、一体どれだけの人たちが考えているのだろうか。
 現実に即して政治のあり方を見てみたときに、政治家にはまず自分の意見があり、それを有権者に対し説得して投票してもらい、代議士になる、といった流れがありがちだなぁと思う。もちろん有権者みんなが政治について必要な知識をすべて有しているわけじゃないし、例え有していてもそれをいちいち時事問題に当てはめる時間はない。となれば他の人が、専門的に、それを代わりにやって、うんいいんじゃないですか、と承認する形態のほうが効率的である。政治だけでは生きていけない、誰かが食料を作り、誰かが家を作りインフラを整備し、誰かが服を作らなければならない。分担しよう、となるのはけして疑問に思っていない。
 でも今はさすがにやりすぎじゃないかな、と思うところがある。これに関してはこっちの人の意見がいいんだけど、こっちに関しては反対側の人だなぁ…となるときだってある。でも私達に選べるのはどの人にするか、だけである。これは本当に自分の意見を伝えたと言えるのか。もっと青臭いことをいえば、代議士はさらに党にまとめられて、党のご意見として伝わることになる。党が議会のうち少数派であれば、なんとか議席は獲得したとなっても、結局なされる決定にはなんにも関与できないのだ。もし自分が投票した議員本人の意見はいいなと思っても、党が言ってることはニュアンスが違う、となったらそれはもはやどこにも根拠のない事実ではあるまいか。この意見は、現実になされている政治は、一体誰が言いだしたものなのか?
 そして議会を見ていれば気に入らないから議会でませーん、なんて議員がおり、モラハラ発言の議員もおり、これはなんなんだ、という話になる。サボタージュだかボイコットだか格好つけてるのか知らないが、あなた達の給料を払ってるのは国民で、あなた達の仕事は支持してくれた人たちの(承認してくれた)意見を話し合うことだ。許されない方に向かう話に抗議するのは結構。しかし雇い主でもない与党は、会議に人がいないから行動改めます、とはならないだろう。もうちょっとマシなことしてくれ、となる。これでも日本で一番難しい試験のうち1つをクリアした人たちなんだとは、なんだか悲しい。
 大人たちに言われたセリフをそのままお返ししよう。「私は君たちに期待しています。ぜひ答えて見せてください。」