鍋に頭をぶちまける

結構変でかなりひねくれた性格の私(宇宙人)が、生きてて腹が立ったこと、それについて考えたこと、頭の中に浮かんできたこと、洗いざらいぶちまけます。

視点

 話者の視点というものを伝えるのは難しいと思っている。もしかしたら私が他の人よりも下手なだけかもしれないが。
 主にコンビニで一緒に働いている人に多いのだが、なぜか「私」が主語だったり話題の中心だったりというふうに偏って認識されてしまう。例えば困ったお客さんの話題のとき、まあ特に対処している店員というのが定まってくるのだが、「今日は何もありませんでしたよ」というと、「お前は何も困らないだろ笑」と返ってくる。え?
 なぜここで私が個人的な話をしなければならないのか。話題が話題なのだから、「(某迷惑客に関するトラブルは)今日は何もありませんでしたよ」という発言だ。「(私に対しては)今日は何もありませんでしたよ」というのはそもそも文法的に不自然だ。私がなにかされたのなら「今日は何もされませんでしたよ」になるはずだし、そもそも普段私が某迷惑客に対してなんらかの対処をするポジションにないことはすでにわかっている事実である。となると、「今日は」というのも不自然で、「今日も」となるはずである。
 何が腹立たしいかといえば、私は自分が何もされない安心安全な立場にいて、特定の店員が迷惑を被っている店全体の問題について目撃者として証言している、というスタンスの発言に対して、何もされてないのに被害者側に立つカワイソウな奴、というレッテルを貼られることだ。完全に会話が成り立たなくて居心地が悪くなる。いやカワイソウなのは人の話聞いてないあなた達でしょう。
 おそらくコンビニの人とは圧倒的に会話をする機会が少ないために、私の言葉遣いというものがあまりあちらにもわかっていないためであろうと思われる。たとえ私の話し方に問題があるにしても、ある程度会話をした経験がある人は、おそらくこの意で言っているのだろう、というところまでは理解した上で確認してくれる。私の主語を明言しない話し方に対して、その主語がなんであるのかを確認しなければならない、という認識があるのだ。それをコンビニの人たちはとりあえず「私は」を当てはめてなんとかしよう、となるからここでズレが生じる。
 にしても、相手の発言の主語が読み取れないときにはとりあえず「私は」を補うという反応、これはどこまで共通なのだろう?