鍋に頭をぶちまける

結構変でかなりひねくれた性格の私(宇宙人)が、生きてて腹が立ったこと、それについて考えたこと、頭の中に浮かんできたこと、洗いざらいぶちまけます。

才能

 私の母はいわゆる毒親なので、私には大人になった今いろいろと気になるような言葉が記憶に残っている。
 体育大会のマスゲームでダンスが下手なのを指して(ときにはわざわざ写真を持ち出して)下手くそなのを笑うタネにしたし、
 図工や美術の展示を見て回るときには「何の作品なのか全然分からなかったんだけどwwww」と言い、
 国語で出した俳句コンクールで入賞すると、「なんでこんなのが入賞できたの?どこがいいの?」と聞かれた。
 どれも学校の強制力のもとにいやいややったものである。良くない作品なのは当の本人が1番分かっているし、母に伝わって欲しいとか、みんなに褒められたいと言った感情も無かった。自分なりになんとか取り組んで仕上げたものだった。
 こういう、学校や幼稚園でやらされる「芸術作品」の目的というのは、クラスや学年において他人と協力することであったり、同じテーマの元個性を出すような作品をつくり普段学校生活を見ることがない保護者に披露することであったり、自分の作品を他人に見せることで「表現する」ことに耐えるメンタリティを育てることではないかと思っている。そして、そうした作品を評価するに当たっては、「社会で生きていく上で必要なスキルを、他人に定められた環境のもとでも示すことが出来るか、困難であってもそうするよう努力したか」と、「芸術作品として客観的に優れているかどうか」の二つに分かれるだろう。
 目的を考えれば、後者の基準を当てはめるのは本来不適切であることが分かるはずだ。もし絵が描けるようになりたい、ダンスが出来るようになりたい、上手な句を詠めるようになりたい、と考えている子供に対して言うのであれば前者の基準にたったアドバイスも有用であろうが、そうでない子供に対して言っても、やらなければならないことが嫌に感じられるだけで、何も生み出さない。気分が悪いなかでやっても、上手くならないのが大抵である。それどころか、それ以後なにかセンスを要求させるような似た状況、作品作りにおいて、その言葉は何度でも蘇る。私などは、手帳に落書きすることですら、家の中で出来ない。母に見られたくないと思い、リラックスできない。
 今の世の親は褒めてくれる人も多いようで、うれしいと思う。