鍋に頭をぶちまける

結構変でかなりひねくれた性格の私(宇宙人)が、生きてて腹が立ったこと、それについて考えたこと、頭の中に浮かんできたこと、洗いざらいぶちまけます。

勉強方法、とかいうやつ

 勉強方法が知りたい! とおっしゃる方に何というか。一言で愛想なく終わらせるなら、そんなものありません、となるのだが、さすがに全くないわけではなく、いろいろやった挙げ句にない、という境地に達したので、成功しやすい勉強プロセスといったものはある。せっかくなので文章化しておこうと思う。
 まず、ノートまとめや、参考書についての話をしたいと思う。もちろんこれらにも意味がある。とにかくあるっちゃあるが、めちゃくちゃに入り組んでいて、もしくはバラバラになっていて活用できない情報を整理する働きがあるのがノートまとめで、それを人がやってくれたのが参考書である。私が思っているのは、高校までの勉強にはノートまとめがいらない、ということだ。なぜなら、ほとんどの人が共通のことを学習するから、そこに市場ができて、わざわざまとめなくても出来のいい参考書がたくさんあるからだ。申し訳ないが、数学や英語のノートまとめをきれいにしている人は賢い、なんて人は勉強できないな、と思っている。円周率を何桁も覚えてるほうが賢い、というのもなにいってんの?としか思わない。もちろんビジュアルを整えるセンスとマメさの持ち主だし、素晴らしい記憶力の持ち主だけれど、テストの点数が取れることを賢いと定義するなら、そんなのは賢くなるためにいらない。ノートまとめしなくても情報が整理できる方が頭の中身のコンピュータ的な能力が高く、πを使いこなせるほうが数学的には正しい。昔々そんなことを、そこそこ"賢い"私に向かって自慢し、マウントを取ろうとしていた人たちが少なくなかったが。ではノートまとめはいつするべきなのか? それを学んでいる人が少数派の場合だ。専門的なものについて学ぶときに、参考書を書く側の人が、調べものをした結果として、などだ。少数派の学びは本として売ってもらえないので、自分で作るしかない。
 そして、じゃあ勉強とはどうすることか。学習ではなく勉強である。問題を解くしかない。本を読みながらでも、問題を解くのだ。私はこれを再現して説明できるか?つかいこなせるか?と。だから、不器用で、そして成績が上がらない人はとにかく問題を解いてほしい。人によって、できるようになりたいことによって、決まった値があって、そこに問題を解いた回数が達すると、自然とその理屈がわかってくる。言葉にできない、その代わり私の身体に馴染んで離れない"分かった感覚"がつかめてくる。とにかく解き方を覚え、解いて解いて解いて、そしてわかってほしい。
 そしてその問題だが、別にバラバラでいい。何度も同じ問題をとけ、なんて人がいるが、答えを覚えたものを何回も解いてみても、答えを覚えてからのは解いたことにならない。回数のカウンターが止まってしまう。その時は素直に、別の問題に行けばいいと思う。むしろ、覚えてできるようになったかのように思い込むほうがずっと危険だ。ただし、問題の形式が同じものを連続して選んでほしい。別のものを解いて混乱させてはならない。
 また、解けるまで粘る人と、答えを暗記する人の二種類があると思う。私は粘る派だ。答えを暗記するほうが早いなんて人がいるが、そんなのはその人のタイプで決まる。けして互いに無理強いしてほしくない。ただ直後のテストでのみ点数を稼ぎたいなら覚えれば良い。覚えた解法を自分の中で分かった感覚に落とし込める人もそれで良い。しかし、もし落とし込めず、少しでも形が違うと当てはめられない、と思う人ならきちんと回数もこなしてほしい。分かった感覚というのは、一度手に入れれば僅かな差にも柔軟に、無意識下で対応してくれる、生きた解法となってくれる。気付けば英文法の不自然さが、言葉で説明できずとも目につくようになり、計算ルールが初めて見た問題にも正確に適用されるようになるのだ。
 つまり、まずやり方を覚える。(やり方を理解しなくて良い)分かるまで解き続ける。分かったかどうかがわからない場合は中断して次に進む。時間をおいて帰ってきても(目安は解いた問題の細かい内容を忘れた頃)できるようであれば分かっている。出来なかったものは定期的にさらい、失敗しなくなった時点で分かったと判断する。これを繰り返すのみ。
 こんなことを書いていると、少し勉強が恋しくなってくる。