鍋に頭をぶちまける

結構変でかなりひねくれた性格の私(宇宙人)が、生きてて腹が立ったこと、それについて考えたこと、頭の中に浮かんできたこと、洗いざらいぶちまけます。

ひさしぶり

 ひさしぶりに映画を見ました。パンズ・ラビリンスです。せっかくなので解釈や感想をば。
 まず聞き取りやすいスペイン語というのが良かったです。語彙も難しすぎず、一つ一つのセリフが短く、またストーリーそのものが面白いのも良かったのか素直に耳に入ってくる。パンがオフェリアに対してvosotrosの所有詞や活用形を使っていたのも面白いですね。古めかしい敬意表現かと思いましたがもしかしたらそうでない? また確認しておきたいところです。
 1つ目の試練は「勇気」であったと思って良いでしょう。他者である木を犠牲に生きるふてぶてしいカエルに対し恥ずかしくないの?の発言、というところでしょうか。揺らがぬ正しいもの、傍観者、敬うべき老人、といったテンプレートな木のイメージをそのまま当てはめて見ました。本の表記も考えると、王国にとって木がなんらかの重要な存在であったのかな、とぼんやりとした印象だけです。ファンタジーですし、ここはあまり掘り下げたくないという思いも個人的にはあります。
 2つ目の試練は「律すること」かなと思いました。思いやりのある妖精を信頼し自分の欲望に打ち勝つこと。だから律せなかったオフェリアは教育者であるパンに怒られてしまった。パンや本に示されていたルールには自分の未熟な考え(これくらい食べても大丈夫)を挟まず、ましてや自分のため力を貸してくれている妖精の言うことは聞くべきだった、といった感じ。自分の欲を優先している指導者はやはり嫌なので…
 3つ目の試練は言うまでもなく「愛」や「自己犠牲」。鬱陶しくなるのでこれ以上は控えます。
 よく言われるのがオフェリアが見ていたものは現実なのか妄想なのか、ということでしょうが、私は現実を推します。王女であるオフェリアにしか妖精やその関係は見えず、フランコ政権側にある継父には当然見えないものは信じられず、またそれに追随する母にも信じてもらえない。メルセデスだけがオフェリアが心を許した相手ですが、彼女は少し違った印象がありますね。彼女の中では、現実と妖精世界が両方存在し、ただ現実に生きている人間には普通妖精世界を見ることができず、見ているオフェリアは現実逃避する妄想少女として見られることが決まってしまう。しかし彼女本人にとってはそれが現実である、という解釈をしてくれていたのではないでしょうか。つまりメルセデス本人にとっては妖精世界は妄想。しかしそれを信じるオフェリアはけして間違っておらず、他の人間には見えないものが見えているだけだ、と。彼女の中には2つの視点が存在していたのではないでしょうか。だからメルセデスはオフェリアの死を悼みますが、現実では廃墟である迷宮にいることを不自然とはせず、ただ歌い続けてくれたのだろうと思っています。
 そしてオフェリアもただ現実逃避し死を望んだわけではない。現実世界では無力でも、妖精世界においては良き統治者であったこと、また彼女の存在が花として現実世界に残ったことからわかります。おそらく現実世界はあまりにすさみまだあるべき姿に戻せる状態ではなかった。そのため女王であり正義、理想形であるオフェリアは現実世界では死ぬ運命にあり、妖精世界でしか生きられなかった。妖精世界は本来あるべき正しい姿を保っており、また正しい方へと向かう心を持ったメルセデスにはそれを肯定する心が残っていた。描かれてはいないだけで、レジスタンスのメンバーたちもそれぞれの形で理想形を追い求める心を持っていたのではないでしょうか。しかしそうではない大尉や母には妖精世界は信じられないものとなってしまうのです。
 だから悲しいとか可愛そうとはあまり思いません。それは現実世界しかなくて、それが至上な人たちにとっての解釈かな、と。確かにその立場に立てば、現実世界には生きられないオフェリアは可愛そうで、無垢な子供が死んでしまうそんな世界は悲しい。でも、もしここで妖精世界がちゃんと存在したなら、現実世界がこんな状態にしてしまった人間がとにかくアホ、レジスタンスよ弟よ頑張れ、私達はちゃんとやっているか? といった思いを抱くのみなのではないでしょうか…
 細かいところは流してしまったので、またリスニングの意味も含めて改めて見たい感が残ります。

違反とはなんなのか

 先日人の車に乗せていただいて駅まで送ってもらいましたが、駅前のごちゃごちゃしたあたりで警察官に止められ違反だと言われてしまいました。平日の昼間でバタバタしているときなので、少しムッとしていると、どうやら横断歩道に歩行者がいたところをそのまま突っ切ったでしょう、といった内容の違反のようです。
―ちょうど横断歩道の、その歩行者がやってきた側の手前にはパトカーが止まって隠れていましたので、歩行者には気づきませんでした。ちなみに、反対側には人がいなかったこと、また警察の方が立っているのも見えました。
―でも歩行者がいました。歩行者が絶対優先で、止まっていただかないと。
―本当に気づいていません。そのような言い方は納得がいきません。
―そう言われましても、歩行者がいたので…
 内心、オウムかよ!一つ覚えかよ!と私もイライラしてきました。
―あの、私も歩行者には気づきませんでした。どの交差点を、どんな人がどのように通ったのかもう一度はっきり教えていただけませんか?
―あの交差点を、あっち側から…
 それだけ!?あっちとかあのとかってなんなのか。一応ちょっとした交通違反とはいえ、法律に基づいて、罰金や罰則を適用しています。本人がわからないと言っているのだから、求められた時はきちんとどの行動がどの規則に基づいて違反だったのか特定して言うのが筋でしょう。そもそも駅の前で張っているということは、あり得る違反も予測されて、予定も決められていたわけで、警察内部での違反の判断基準や、法律、判例とかひととおりさらっておくべきなのではないでしょうか。また今回のドライバーの行動が違反だった点は、「歩行者がいたにもかかわらず横断歩道上を進んだ」ことではなく、「歩行者の存在が予想できる状況下で、一時停止を怠った」ことです。結果的に同じ規則が適用されるとしても、やっていないことをしつこく言うのは印象が悪くなるだけでしょう。そして状況として、どうしても警察側のほうが上の立場になりやすいのだから、同じことばかり繰り返すと威圧的にも聞こえます。
 たしかにドライバーの言い方も文句に聞こえかねないものだったので仕方ない面もあるでしょうが、犯罪に応じるのと同様真剣に対応していただけると、ドライバーも勉強になりました、と素直になってくれるかもしれません。互いに気持ちよく注意し合える社会が望ましい、というのは団体内に限らず、このようなシーンにも当てはめられるのではないでしょうか。

勉強方法、とかいうやつ

 勉強方法が知りたい! とおっしゃる方に何というか。一言で愛想なく終わらせるなら、そんなものありません、となるのだが、さすがに全くないわけではなく、いろいろやった挙げ句にない、という境地に達したので、成功しやすい勉強プロセスといったものはある。せっかくなので文章化しておこうと思う。
 まず、ノートまとめや、参考書についての話をしたいと思う。もちろんこれらにも意味がある。とにかくあるっちゃあるが、めちゃくちゃに入り組んでいて、もしくはバラバラになっていて活用できない情報を整理する働きがあるのがノートまとめで、それを人がやってくれたのが参考書である。私が思っているのは、高校までの勉強にはノートまとめがいらない、ということだ。なぜなら、ほとんどの人が共通のことを学習するから、そこに市場ができて、わざわざまとめなくても出来のいい参考書がたくさんあるからだ。申し訳ないが、数学や英語のノートまとめをきれいにしている人は賢い、なんて人は勉強できないな、と思っている。円周率を何桁も覚えてるほうが賢い、というのもなにいってんの?としか思わない。もちろんビジュアルを整えるセンスとマメさの持ち主だし、素晴らしい記憶力の持ち主だけれど、テストの点数が取れることを賢いと定義するなら、そんなのは賢くなるためにいらない。ノートまとめしなくても情報が整理できる方が頭の中身のコンピュータ的な能力が高く、πを使いこなせるほうが数学的には正しい。昔々そんなことを、そこそこ"賢い"私に向かって自慢し、マウントを取ろうとしていた人たちが少なくなかったが。ではノートまとめはいつするべきなのか? それを学んでいる人が少数派の場合だ。専門的なものについて学ぶときに、参考書を書く側の人が、調べものをした結果として、などだ。少数派の学びは本として売ってもらえないので、自分で作るしかない。
 そして、じゃあ勉強とはどうすることか。学習ではなく勉強である。問題を解くしかない。本を読みながらでも、問題を解くのだ。私はこれを再現して説明できるか?つかいこなせるか?と。だから、不器用で、そして成績が上がらない人はとにかく問題を解いてほしい。人によって、できるようになりたいことによって、決まった値があって、そこに問題を解いた回数が達すると、自然とその理屈がわかってくる。言葉にできない、その代わり私の身体に馴染んで離れない"分かった感覚"がつかめてくる。とにかく解き方を覚え、解いて解いて解いて、そしてわかってほしい。
 そしてその問題だが、別にバラバラでいい。何度も同じ問題をとけ、なんて人がいるが、答えを覚えたものを何回も解いてみても、答えを覚えてからのは解いたことにならない。回数のカウンターが止まってしまう。その時は素直に、別の問題に行けばいいと思う。むしろ、覚えてできるようになったかのように思い込むほうがずっと危険だ。ただし、問題の形式が同じものを連続して選んでほしい。別のものを解いて混乱させてはならない。
 また、解けるまで粘る人と、答えを暗記する人の二種類があると思う。私は粘る派だ。答えを暗記するほうが早いなんて人がいるが、そんなのはその人のタイプで決まる。けして互いに無理強いしてほしくない。ただ直後のテストでのみ点数を稼ぎたいなら覚えれば良い。覚えた解法を自分の中で分かった感覚に落とし込める人もそれで良い。しかし、もし落とし込めず、少しでも形が違うと当てはめられない、と思う人ならきちんと回数もこなしてほしい。分かった感覚というのは、一度手に入れれば僅かな差にも柔軟に、無意識下で対応してくれる、生きた解法となってくれる。気付けば英文法の不自然さが、言葉で説明できずとも目につくようになり、計算ルールが初めて見た問題にも正確に適用されるようになるのだ。
 つまり、まずやり方を覚える。(やり方を理解しなくて良い)分かるまで解き続ける。分かったかどうかがわからない場合は中断して次に進む。時間をおいて帰ってきても(目安は解いた問題の細かい内容を忘れた頃)できるようであれば分かっている。出来なかったものは定期的にさらい、失敗しなくなった時点で分かったと判断する。これを繰り返すのみ。
 こんなことを書いていると、少し勉強が恋しくなってくる。
 

ブログとはなんなのか

 とりあえず書きためるだけ書きためているが、結局ブログとはなんなのか、ブログっぽい形にしてみれば見るほどわからなくなる。
 そもそもこれはブログなんだろうか。私としてはブログのつもりはない。そもそもブログって、ネット上に置かないと活用できないものを置くものじゃないか… 私が書きためているのはただひたすらに日記である。というか、考え事のメモ、といったものである。
 文体も滅茶苦茶だし、中身もバラバラだし、これを読んで得られるメリットとは、ズバリ言ってしまうと、(世の中にはこんなこと考えてる変人がいるのか… 私はまだまともだ…)と考える機会を得られることだ。
 じゃあなんでブログの形態に寄せているのか。(世の中には… 以下略)と考えてほしいからにほかならない。でかでかと、いかにも見てください! な状況にするのはさすがに恥ずかしい。しかし、ひとに見られるかも、といった緊張感がある方がマシな文章になる、と思っている。
 これだけでは説得力に足りない。そんなに見られたいなら日記帳の鍵外して机の上に放置しておけばいい。気になっちゃう母が勝手に読んでくれる。
 でもそれは嫌なのだ。思春期をまだ引きずっているのだ。母への文句を書いたものを、見られたくないのだ。
 もう一つ理由を述べよう。自分の頭の中身を紙に書き出し投影し整理する、といった行動がとても嫌いなのだ。ノートテイキングや手帳へのメモはその行動には当たらない。あれで行っているのは、あくまでも情報を整理することだ。最終的な目的は、整理した情報を頭に入れることだ。しかし考えたことの投影・観察というのは、自分の感情と、自分の中にある、ありのままの、そして勝手な理論を吐き出すことだ。客観的に見たときには、もうそれらの情報は紙の上で変質している。吐き出した感情は、二度とオリジナルの形で頭の中に舞い戻ってくることはない。自分の中の扱いにくいもの、触りたくないもの、邪魔なものを吐き出して、それを捨て去って、成長するのだ。ついでに書いたものを見て、それが生み出されることに影響を与えたであろうものを見極めておくともっと成長できるよ、と。
 私はそんなことを望んでいない。正直に言えば、それくらいのことは、頭の中でもすむ。わざわざ紙に書き出さなくても処理できるし、紙に書き出したところで本当は消えてくれるわけでもない。
 言葉は人に伝えるためのものだ。自分の中で書いて、満足してはもったいないと思う。誰かに無理やり見せるようではいけない。でも、もし通りすがりの誰かが、特に有用な情報を手に入れたわけではなくても、面白いと思ってくれれば書いたかいがあると思う。
 

サンパウロに行きたい

 最近よく言われていますよね、
       サンパウロはヤバい
これなんなんだろう、とよく思います。まあ、たしかにだれかわからないような人が殺されてたり、誰のかはっきりわかってない内臓が売られてるのが本当なら、その状況はヤバいとは思うんですが。
ただ、だから行っちゃダメ、としつこく言う大人たちは何様なんだろうと思うのです。
 そういう大人たちは、なんで日本にいるんでしょう?親が日本人だったからです。なんで日本人の親を持ったんでしょう?
 たまたまですよね。この国もいいことばかりじゃないですから、運が良かったとは言えないけれど、あなたの嫌なサンパウロの下町に生まれなくて良かったですね、としか思えない。
 そこに住む人たちに失礼だと思います。あなたと同じ優しい心を持って、仕事帰りのビールが美味しくて、サッカーの試合に行くのが楽しみな、あなたと殆ど変わらない人がそこにいるんだよ、と言ってやりたい。
 サンパウロにもいろいろあります。安全なところもあるし、いい人もいるし、きっとおいしい料理があります。行きたいって思ってどうしてだめなんでしょうか。
 実際に行くとなったら、万一何かあったときに迷惑がかかる相手がいますからそれはいいんです。でも、テレビ見て行きたいな〜いいな〜ってつぶやいたその一言に、過剰反応しないでほしい。そういうこと言われたら、サンパウロは否定されてしまう。サンパウロのなかのいいところまで潰さないでほしい。
 サンパウロに限らず、他の国でも、街でも、同じこと。そういうのを、大事にできる人になりたいものです。

アイスクリーム闘争

 GW明け、ただでも憂鬱なのに天気が悪いともっと憂鬱になりますね。
 
 今日は、昨日コンビニにやってきたある親子の話。30代くらいかな?と思われる母親と、幼稚園くらいの男の子でした。お母さんは明日の朝食がなかったのかパンなどをかごにいれていき、男の子はその間アイス用の冷凍庫をずっと覗き込んでいました。そろそろレジに行きたいお母さん、早く行くよ、と声をかけるのはよくある光景です。しかし男の子は頑として離れようとしない、これもよくある光景ですね。仕方がないからお母さんも折れて、一個買ってあげるから早く選びなさい、となりました。
 ここで困ったことになりました。自分の中では真剣にアイスを比較し吟味して選んでいる男の子。子供のアイスなんて何でもいい、できれば安いのをササッと選んでほしいお母さん。二人のミニ・バトルが始まります。お母さんはあれやこれやとしつこく声をかけ、どさくさに紛れて適当な、できれば安いアイスを掴ませようとします。対して男の子は、自分の心の声に耳を澄ませんと必死の形相。
―早くして! スー○ーカップは? モ○は? こんなのどっちも一緒でしょ、いちごかブルーベリーかだけ!
―今考えてるんだから声掛けないで! あー! ママがうるさいせいでわかんなくなった、いちごだのブルーベリーだのうるさいよ! せっかく決まりそうだったのに!
 母親からすれば理屈っぽい小憎らしい発言なのかもしれませんが、私はなんとなく男の子の気持ちも想像できて、少しだけ助けたくなりました。かごいっぱいのお母さんの買い物を先にレジに通しながら、男の子にゆっくり選び! と声をかけました。
 しかしまだ決まらない。近くによって聞いてみれば、どうにも、男の子がほしいのはでかでかとポップが貼ってある、新商品のようなのです。ごめんなさい、それは夜中まで入ってこないんです。ケーキでも見る? といいますが、男の子は意地になってこれがいい! を繰り返す。とうとうお母さんは男の子のうでをつかんでレジにやってきました。
―ほんとにしつこい!
 結局店員をハラハラさせた都合悪さに男の子はイチゴアイスを手に入れはしましたが、今晩の二人はギクシャクするんだろうな、と思うと他人ながら少し寂しい思いがしたものです。
 お母さんからすればたったアイスひとつです。でも、男の子からすれば、今を逃せば次いつ買ってもらえるかわからない、子供の経験乏しい食生活にとってはかなりのインパクトを与える大事なアイスです。甘やかせ、と言いたいわけではありません。買わないという選択肢も何の問題はありません。でも、少しだけ、子供の立場も考えてくれないかな? と思うのは私が子供だからでしょうか。
 男の子はきっと必死に考えていました。まだ若いから、大人なら気づきすらしないようなまわりの言葉もどんどん耳に入ってきて、本当に混乱したのです。私がお母さんの立場なら、「5分で決めなかったら買わないからね」と言って黙ってあげたいものです。一緒にアイスの特徴を挙げて整理しても楽しいかもしれません。まあ、私はお母さんじゃないから、実際そうなったらそうはできないのかもしれません。 

いちばん最初に

 こんないかにも最初感出しちゃった記事を読む人はいるのだろうか、とゆーかだれにも見つけられないのでは、と書き出してから不安になる。
 なんか知りませんけど、こーゆーのありますよね。なんでしょうね、自分が発するものが受け入れられるのか不安です。書こうかな、なんて思うだけなら、それはやっぱり頭の中のことで、うまく行ってるように想像できるよう頭が何かしてくれるけれども、いざ実際に社会とか、世界とかに判断を任せるとなるとその補正が効かずにちょっとこわくなる。そんな感じかしらん。
 

 今から家族に関する愚痴を書きます。私としては毒親と思っている母に関してです。もしかしたら毒親と戦う同士(私からの一方的な親愛の情を込めて!)にとって何らかの感情をもたらすものであるかもしれない。それ以外にも読んで何らかの感情を起こしてもらえたならそれはとても嬉しいです。ありがとうございます。

 今日はバイトに行ってきました。月曜日は全休なのでバイトだけの日です。バイト先はコンビニです。雨がひどかった。妹が買い物ついでに一緒に出勤してくれました。妹のレジは私が打ちました。そこで、私はある商品を入れ忘れたまま、妹を帰してしまったのです。
 まず私がカウンターの中に私が立つ。その向かい側に妹が立つ。妹がいくつかの商品をカウンターに置き、また揚げ物とかの店員が持ってくる感じの商品を注文する。私はひたすらレジに商品情報を入力していく。入力が終わり、お金を受け取り、お釣りを返す。次は商品を袋に入れて渡すわけだが、妹の後ろには長い列。私はレジ前から追い出されてしまった。何の揚げ物を注文されたかわからなくなった私は、慌てて覚えている限りの商品を妹に手渡す。
家に帰った妹はびっくりする。
―頼んだものが一つない! おやつにするつもりだったのに!!!
 どうやら妹はその時点でLINEしてくれていたらしいが、レジを追い出され他の仕事にてんてこ舞いだった私は家に帰るまでミスにもLINEにも気づかなかった。
 家に帰ってみれば母親はなぜか激怒している。今日はいつもと違うメンツで回したから疲れてるんだけど…。そこでミスのことを言われる。
―商品一つ入ってなかったじゃない!何考えてるの!いい加減ね!どうしてくれるのよ!
 どうするもなにも5時間も経っているじゃないか。レシート見せて返金してもらうしかない。
 レシートを持っている妹はどうにもその場にいない。また書きたいが、母親は私にとっては結構な毒親だ。理不尽に近い状態で喚き散らしているところに真面目に応対をするものではない。
 じゃあ返金するね。とそれだけ答えてしばらく妹を待った。相手をしてもらえなかった母はえらく立腹していたが、疲れていたのでとりあえず放置。
 ようやく帰ってきた妹にレシートをもらい、やっとこさコンビニに戻る。雨が上がっていたのが不幸中の幸いといった印象。商品がまだ残っていたので、事情を説明し頂く。ついでに残っていたもう一個も買って帰った。
 時間を置くと母親も静かになる。持ち帰った商品を妹に渡し、やっと安定した日常が帰ってきたのだった。

私が苛立ったポイント
・帰宅してからクレームされたこと
・頭ごなしに理不尽な文句を言われたこと

私自身の、苛立ちの分析
・私がコンビニ店員なのは、制服をきて店の中にいる勤務時間中のみである。クレームをされたタイミングが、コンビニではなく家にいる時であるのはフェアでないし、そもそもクレーマーである母の目の前にいたのはその娘に過ぎず、本来クレームすべき相手である店員ではない。(もちろん同一人物の2つの側面としての店員と娘ではある。しかし)今回のクレームは本来店にいる時間に店の電話番号に電話をかけて、店員と客という関係を保った上で伝えるべき内容である。それをわざわざ数時間ためこんで増幅させた上に、親子というパワーの差が影響し、しつけという本来なかったはずの動機がプラスされ、また仕事のことを考える義務から開放された状態にある家という場所で伝えると、言葉の持つエネルギーはクレームの域を超えてしまう。さらに言えば、今回の買い物は父がお金を出し妹が店に出向いたものである。母は客ではない。
・母の文句に対し、私は母の思うようには答えなかった。それに対して母は、"こんなミスをするとは!"、"どうして自分がしたミスの責任を取れないのか"、"お前は客に向かってそのような態度をとるのか"と激昂して答えた。母は知らぬこととはいえ、私とてぼーっとしていたわけではなく、レジを追い出され、きちんと商品とお金の受け渡しが完了しているか確かめることができなかった状況にある。もちろんミスは絶対にいけない。しかし人間ミスゼロというのはなかなか難しい。クレーマーが激昂した状態で、しかも先述の通り不必要にクレーマーが有利な状態で、疲れて帰宅した私に対して、これが本当にクレームのあり方として適切なのかどうか疑問である。もはやそこに私が店員としての"適切な"対応をする必要が本当にあったのか、疑問である。仕方がないとは言わないが、もう少し落ち着いた状態で、こちら側の事情も加味はせずとも言い分を聞くくらいのことはできたのではないだろうか。それを得られなかった私が、客ですらない母に対して、どうして迎合的な態度を取ろうか。妹に対しては責任を取るし、その旨は母に伝えた。実際に実行もした。事情も知らぬ母に、必要以上にミスをネタとして人格否定をされる必要があるのか。ミスに対する対応について、第三者である母に迎合する形(本来手続きに必要であるレシートをごまかし不正をしてまで、母が望むようなタイミングで行動すること)をとる必要はあるのか。
母の罵倒は本当に教育的、商業的価値を持っていたのであろうか?

この事件を反面教師として、私が取るべき態度
・理性的で対等なクレーマーになること
・自分より弱い立場の人間に対し高圧的な態度を取ることを避け、自分と相手が置かれた状況について分析すること。分析ができなければ、相手の事情を尋ねること。

 長くなりました。ここまで読んでくれてありがとうございました。店に出向き電話をするという手間をかけて、理性的に被害を説明してくれるクレーマーというのは実に素晴らしい。怒りに流されず、自分の利益を守り、相手に対しても不必要な犠牲を強いていない。非常に高度な行動と感じます。非常に大事にしたいお客様です。

 それでは、今日はここまでにします。皆様のまたのお越しをお待ちしております。ありがとうございました。